20年~これからも走り、戦い続ける~

アイルトン・セナが事故死してから、今日で20年になる。

早いものだ。あっという間だった感覚だけど、変化するには十分な時間だったのかな。この20年の間にF1は大きく変わった。そして自分も変わり、大人になった。20年経った今、思うのは、セナを理解するには当時の自分はやっぱり若すぎたな、ということだ。ガキだった自分はまだまだ無知だったし、そもそも情報を得る手段も今と違って限られていたのだけど、ただただ憧れていただけで何も知らなかったんだな、と今さらながら気付かされる。

今、役不足の記憶と断片的な知識をつなぎ合わせてアイルトン・セナを想像してみるに、言うまでもないほどの比類なきテクニックと才能ばかりでなく、それと同等か実はそれ以上の強靭なメンタリティの持ち主だったのだろうと思う。

人よりも圧倒的に高いところに限界線を引けるのはその才能によるところ。でもセナは時に、その線を押し上げてくる。また時には、それを踏み越えてくる。それもいとも簡単に。それを可能にしているのは自身への自信なのか、あるいは他の何かなのか。勇気と必要性だけでそこまで行けるとは一応同じ人間として思えないし、彼の敬虔な信仰と結びつけてしまうのもナンセンスな気がする。だからといって、ひとまとめにしてメンタリティと言ってしまうのも何かアレなんだけども。

この20年でF1は変わった。自分も変わった。そして、世界も変わった。

世界の中で、もちろんそれにはF1も含めて、求められる限界線の位置はずいぶんと低くなったものだ。それが20年間の一番の変化だと思う。テクノロジーは進化し、セナ以後、F1は死者を出さず、クラッシュが起きてもドライバーはたいてい無傷でコクピットから降りてくる。街の中には前方車や歩行者との距離を認識して自動でストップする車が走るようになった。

安全になったものだ。信じられないほどに。

限界線の前にテクノロジーでセーフティラインを引いておく。そして我々は、そこからさらに安全マージンを取って生きている。今日を迎えるに当たってセナを想像したとき、一番身震いしたのは、セナの限界線と我々の立ち位置との距離感だった。


挑戦しているか?
リスクを侵しているか?
安全バカになっていやしないか?


F1で死者が出なくなったと言ってもいつかきっとまたそんな日は来る。クラッシュすればマシンが宙を舞うこともあるし、ウイングが落ちればコントロール不能になる。それはこれからもずっと変わらない。
F1限らず、他のスポーツもそう。野球の中にデッドボールや乱闘はこれからもきっとある。今年阪神の西岡と福留が、かつては巨人の吉村と栄村がそうだったように、ギリギリのプレーの中で悲劇にも激突し大怪我を負ってしまうこともあるだろう。サッカーでヒジ打ちや後方からのタックルが危険だと言われていてもなくならないように、きっとラグビーやアメリカンフットボールでの接触プレーによる脳震盪への不安は存在し続けるし、競馬における斜行や落馬も、競艇における転覆も、きっとなくなることはない。バイクレースやオートレースでの転倒、激突死も、残念だけど、これからも起こり続けるだろう。

でも、それでいいのだと思う。

安全バカになりすぎた世界の中で、リスクの向こう側を示してくれる唯一の手段(少なくとも自分には)がスポーツであり、その最先端がF1なのだ。だからこれからも走り続けてほしい。戦い続けてほしい。臆病なボクらの想いを乗せて。はるか限界のその先を見せてくれたセナはもういないけど。でも、それでも…。

2014年5月1日
今日もすべてのスポーツ選手へ敬意を表しつつ、無事を願いつつ。



※最後に、文中では省いたが、ローランド・ラッツェンバーガーにも哀悼の意を表したい。
そしてミハエル、早よ目ぇ覚ませ!!!


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